明治さんとあさ子さんの発言まとめ

楽しい毎日を日記で綴ります!

ブブセラ奏者を静かにする

なぜ生きているのか、なんのために生きているのか、やっぱりわからなくなってくる最近。考えないように考えないようにしているけど、考えないようにして生きる意味ってなんなんだろうとやはり悩んでしまう。

楽しいことを見つけて楽しめば良いんだけど、楽しい意味って何だろう。生きる意味なんてものはそもそも用意されていない。あって然るべきであるように思っちゃうけどそもそもそんなものはないのだ。

その悩みが吹き飛ぶような何かが見つかれば良いなと思ってる。

 

そんな感じだから、なかなかリラックスすることが難しい。

最近そこで試しているのが、頭の中にブブセラを吹く人たちを想像し、その人たちが速やかにブブセラを吹くのをやめるのを想像することだ。

結構これがうまくいっていて、寝るときやちょっと落ち着きたい時に、なかなか効果的だ。

ブブセラ奏者たちはみんな正装をしている。二列に並んで向き合い、ブブセラをその列の間に向けて吹いているのだが、その整然とした並びを無下にするようにブーブーと音を鳴らしている。

そこで想像の中の僕が、注目を促すように手を挙げると、その騒音はピタッと止み、僕が呼吸をするたびに、一人、また一人と立ち去っていくのだ。

落ち着きが取り戻せない時は延々と続くブブセラ奏者たちがまだ奥の方でブーブーやっているので、僕はまた注目を促し、静かにしてもらう。

そのブブセラ奏者の中に、きっと別の自分がいる。

 

考えや言葉が頭の中で止まらない時は、ブブセラブブセラと自分に唱えて、数人だけでも立ち去ってもらうようにしている。

ブブセラ奏者がいなくなった閑散としたホールを、頭の中に保つ。散歩をしている時、お風呂に入っている時、その状態をできるだけ保つことで静かに過ごすようにしている。

 

リラックスする、というのは難しくても、ブブセラ奏者を静かにさせる、というのは比較的簡単にできる。

こうやってなんとかやり過ごすのだ。

疑問や不安のブブセラ奏者を控室に戻して、僕の時間を作る。

パンジーが咲きました。

冬に少しずつ買い足した冬の花が今、満開。去年買ったパンジーは寒そうに花を2、3個ひらひらさせてたのが、ここ最近暖かかくなったからその一つの株から次々花がさいて植木鉢の上でガマガエル合戦状態です。

パンジーって実は公園などに植えてあるのが痛々しくて苦手だった。

地面に近いところに植っているから土がかかっていたり、大量に規則的に並べられているのがなんとも不自然で、見ていて窮屈で、売ってても買いたくないなと思っていた。

けどこう植木鉢に植えたのがたくさん咲くと、軽やかな色とか柔らかい花びらが清々しくて良い。

ビオラも一緒に植えたけど、パンジーの勢いを追うように最近になって咲き出した。

この時期から8月頃までは毎月毎月色んな花が順番に咲くので本当に楽しい。沈丁花が咲いて梅が咲いて、桜が咲いてシャガが咲いて花菖蒲が咲いて、、と毎月発見がある。

夏が終わってからこの時期まで花っぽさがなくなってしまうのが本当に残念なんだけど、この時期に咲く良い花はないものか。

大抵、夏に咲いてしまうか、その後咲くような花でも夏の暑さに負けて枯れてしまったりするから、先を見越して調べてみたいなと思っている。

友達を切り捨てたの巻

お題「#この1年の変化 」、、、友人関係を見直した。

 

誰にでも面倒くさい友達っているんだろうか、僕だけだろうか。

僕は面倒くさい友達を作ってしまう傾向があって、心の中で面倒くさいなあと思いながら付き合い続けてしまうことがよくある。

もう5年くらいの付き合いになるだろうか、この友達は自分の中でもなんていうか革命家タイプの人で、話しててとても面白いな、興味深いなと思わせるような話をよく聞かせてくれる友達だった。

社会がいかに歪んでいて、社会がいかにその歪んだシステムの中で市民を誘導し利益を確保しているのか、説いてくれる人だった。今回の新型肺炎騒動でもそう。去年のBLM運動でもそう。メディアによる煽りに人々が乗せられていく危険を説いていた。

 

けど何が面倒くさいって、話が長いのだ。話がひたすら長い。頼んでもいないことを延々と説教してくる。途中で僕が何を言おうと関係ない、いや何かを言えば僕の発した一文の中のキーワードを一つとってそこから更に自分の意見を広げていく。

去年、コロナで亡くなった人が周りにいるかと唐突に聞いてきたので、亡くなった友達の父の話をしたら、それは直接の知り合いではない、自分の周りでは亡くなっているのは友達の友達だとか同僚の家族だとかで、大抵は基礎疾患があったり高齢者であったりするので、健康な人で本当に身近な人が亡くなった例はとても少ない、だから今、社会はパニック状態にあり、ヒステリックになっているだけだと。僕はその時、父を亡くした友達のことで憂いていたので、流石に今はその人の話は聞きたくないといった。

ある時、試したら、僕が相槌も打たずに黙って聞いているのを10分近く気づかないこともあった。すでに聞いた話をされることもあったし、それを指摘した所で意味がない。僕のいうことなんて聞いていないのだから。そんな時は、話すだけ話して満足すると、「じゃあ僕はもう寝るから」と話を終わらせていなくなってしまう。僕はその話の中で発することができなかった僕の意見や考えのやり場に困りながら、疲れ果てて寝るのだ。

この人の自分の意見への執着はある種の病気なのかもしれないから、一概にこの人を叱ることはできないと思うし、これに関して僕の出る幕ではないと思い、それでも絶縁するようなことはせず、ある程度我慢をして、この人の意見を聞ける時は聞いていた。でも正直、面倒臭かった。

 

けど、この新型肺炎騒動が続いて、その煮え切らない交友関係を終わらせることができた。彼のような意見のある人、考えを発する人を、僕はエネルギーを費やしてでも僕の側に置いておく必要があると考えていたが、その理由がわかったからだ。それは僕の考えを形成するヒントを与えてくれる期待があったからである。

最近になってある程度ワクチンや病気の防ぎ方とか、より明確に見えてきたものの、去年は何が正しいのかわからない、言ってみれば異常事態だった。考えや思いを共有し、時に疑問を投げかけあって、歩く道を確かめる必要があった。こういう時のために、僕は彼を友人として、受け入れていたのではないのだろうか。

けど、彼のようなコミュニケーションが絶望的に成り立たない人は、むしろ逆で、それをさせてくれない。付き合いが5年以上になるとか、何か決定的な事件があったわけでもないとか、この人には僕の他に話を聞いてくれるであろう人がいない事が容易に想像できるとか、そう言うことはもうどうでもいい。これは単純に危険だ、そう思った。

 

それでもしばらく付き合いは続いたが、その新しくできた僕の空間の中で、彼と、彼の話を聞く僕の間にあったものは、僕の期待だったことがわかった。話を聞いてもらえる期待ではない。自分の足元を照らす灯への期待だ。けどそんな灯は、人の意見を聞いているだけでは生まれない。自分の足元を照らすのは自分であり、この人の長い話は、この人の足元だけを照らしていく。一言一言彼が発するたびに、彼は自分の居場所を照らし、僕が話を聞くことで成り立つ承認が、その照度をあげていく。

(皮肉なことに、そんな気づきをまず伝えたいなと思ったのがこの人だった。会話をしているという虚構が長く続いたせいだろうか。)

 

僕はそして、この人からの連絡に返事をするのをやめた。前にも何度か疲れて返事をしなかったこともあったが、久しぶりに連絡が来るたびに、最近どうしているのか聞いてみたくなって返事をしてしまう自分がいた。けど、もはや面倒臭いだけではなく危険になってしまったこの人に、僕は何を説明する気力もなくなってしまった。

 

数ヶ月たった今、なんだか長い文章が送られてきた。面倒くさいのでハッキリ読んでいないが、自分は何も悪いことはしていないし、連絡を取り合いたくないならせめて理由だけでも聞かせて欲しいと言うようなことが書いてあるように見えた。

彼の話が長いこと、疲れていると言っても話し続けて僕が怒ったことも過去には何度かあった。それでいて見当もつかないなら、やはりこの人とのコミュニケーションは成り立っておらず、危険である。

この一年で、心の健康について深く考えさせられた。自分の心を守ることが、感染症対策と同じくらいに重要なのだ。

 

放っておけば、その内似たような人を捕まえて、僕に話したんだかその人に話したんだか話してないんだか本人が思い出せないような話を、きっと続けるのが関の山だろう。

楽しい思い出もあるし、彼の意見自体、なかなか面白いなと思うことも多々あっただけに残念だけど、この人の熱で干からびた僕の受動帯はもう触ると砂のように崩れていくだけなのである。

 

っていうか、何が悪いかわからないけどとりあえず謝るってのは、なんだ。お構いなしもいい所である。僕は決して友達が多いタイプの人間ではない。だからこそ、この人を切り捨てることに勇気が必要だった。でも今思えば、彼はその弱さを嗅ぎつけて、僕に声をかけ続けていたのかもしれない。

リラックス難しい

三日坊主なのはいつものことなのでせめて三日は続けようということでこの日記を書かせていただいてます。よって特に書きたいこともなし、淡々とすっきりしない胸の内をそのまま書かせてもらおうと思います。

 

後頭部を締め付けられるような頭痛に苛まれている最近。今日は特に酷くて本当に迷惑だ。パソコンやネット会議中の照明が相当悪さをしていそう。またはiphoneの画面ややめられない喫煙が悪いのかもしれない。

 

僕は昔からリラックスをするのが苦手だ。例えば採血をするときなんかは「ラクにしてくださいねー」と看護師さんに言われるんだけどその仕方がわからず採血が中々進まない。騒音がするとおしっこ出ないし、ヨガのリラックスできる(らしい)姿勢で筋肉痛になったこともある。力を抜く力が大きすぎる。大きな壁の上に脈々と広がった木の根が、空間が広がることを許さないのだ。

楽しい会食なんてもってのほかだ。誰がどれだけ食べたのか、食べている同じ口でどう話せというのか、そんな事に考えを巡らせているうちに疲れてきて、いつ終わるのか、誰が終わらせるのか、誰が引き伸ばすのか、頭の中で大論争が繰り広げられている。

 

頭の中でレンブラントの絵に出てきそうな構図だ。ヒラヒラした服を着た男たちが、真っ暗な中で強烈なライトを浴び、解散時間を予測しては指をさしあってお互いの誤算を指摘しあっている。彼らの強烈なエネルギーが僕の頭を内側から押し出し、崩れそうな部屋の壁を木の根が掴んで離さない。

リラックスなんてできるものか。

 

どんな場面でも議題が変わるだけで、この人たちは誰も帰ろうとはしない。横になって"ラクな姿勢"をしようとした所でやはりそれは同じで、例えばそんな時はこの姿勢は果たしてラクなのか、横向きがいいか、枕はどうだ、いや呼吸法だと罵り合っている。

 

僕はその絵画を見ている人なのか、それともその絵画の中の誰かなのかはわからない。

なんでもいいけどこの全員がある程度のレベルまで納得した時が、きっと僕がリラックスできる時である。

 

この人たち、それぞれ行きたいところがあるんだろうか。その場所に連れて行ったら一人ずつ離脱していって最後に僕一人が残るんだろうか。

 

 別に前からこうだったわけじゃない。いつだか覚えてないけど、一人で過ごす時間が楽しかった時が絶対に僕にもあったはずだ。その時の感覚を思い出したくて、今は文章を書いている。

 

今にも皿がフリスビーのように投げ飛ばされそうな食卓で、その人は言葉を探している。その場にいる誰のためでもなく、自身に向けて。その人の声を聞いてあげたい。その人には、一番手前で机に片手をつきもう片方の手で人差し指を伸ばしている男すら黙らせるだけの必殺の一文を作り出せる力がある。

 

ジャスティン・ティンバーレイクと森喜朗事件

女性蔑視発言に燃える自民の爺たちの発言に世の爺たちは何を思うのだろうか。

自分たちの常識がいかに非常識なのか、少しでも気がついてくれればいいけど。

 

常識は変わり続けていて、時に新たな常識は嘲笑と共に迎えられることがある。

わかりやすい例は10年ほど前に「草食系男子」と揶揄された男たちである。料理をしたり、趣味に没頭したりして、女にがっつかない、性欲低めに見える男たちを揶揄した表現だ。(興味深いことに、この言葉を言い出したのは女性だった。)今ではそんな男がすっかり常識になりつつある。

 

新しい流れを指をさして笑っている間に、向かい風に晒される。

女性蔑視発言に燃える爺たちを見て、そんな事を考えさせられた。

 

今日とても興味深い記事を読んだ。ゴシップ記事かと思ったら違かった。僕自身も反省させられた記事。ジャスティン・ティンバーレイクが謝罪文を公開したことだ。

彼は自分が白人男性が成功するようにお膳立てされたシステムの中で生き、ブリトニーを悪者にした事を謝っていた。

男が派手なら魅力的で、女が派手ならアバズレ、そんな社会がほんの10年ちょっと前までそういえばあったことを僕は今まですっかり忘れていたし、それが普通であった世界に僕が育っていたこともすっかり忘れていた。

BLMもMeTooも大して真面目にフォローしてこなかったけど、そういった活動がどれだけ大きな風となったのか、恥ずかしながらこの記事を読んではっと気付かされた。今改めてあの時のジャスティン・ティンバーレイクを観ると、あの頃からすでに小さな新しい流れがふきだしていて、僕はそれに指をさして笑う大勢の一人だった。

 

(似たような感覚で思い出されるのは、Lady Gagaが売れてなかった頃のラジオインタビューだ。彼女の奇抜な格好を鼻で笑っていたあるラジオDJは、今、あの時の事を恥じているといっていた。彼女がずっと自分を愛そうというメッセージ、好きな格好をすればいいのよ、というメッセージ。このDJは今自分がゲイであることを完全にカミングアウトしているが、このインタビューの時はまだしていなかった。)

 

時代は動いている。女性蔑視のニュースが出るたびに情けなくも苛立たしくも感じるが、これがニュースになることは、社会の大きな進歩の証だ。10年前だったら、僕も、社会も、こういうニュースになんの価値も見出さなかったかもしれない。

www.elle.com

ClubhouseでAndrew Bayerのなんとかって曲と色んな人の背中思い出すの巻

Twitterのつぶやきの長いバージョンみたいな日記なのに、お気に入りに登録してくれている人がいるのは本当に嬉しい。

よく考えてみたら、オンライン日記の短いバージョンがTwitterだったんだから、別に自分のオンライン日記を卑下する必要はないのか。そうだよね。

 

今日、嬉しいことに(?)クラブハウスの招待をある人から送ってもらえた。気にしてないと言いつつ、二人しかない枠の中で自分に声をかけてくれたのはちょっと嬉しかった

クラブハウスは、「部屋」(ライブ配信中の人たち&聴取者の集まり)にアクセスすると、途中からでも話を聞くことができる。そこで発言したかったら「発言したい」旨をアイコンで表示して、それが司会者に受け入れられたら発言もできる。という仕組み。

 

これを本当の部屋だと仮定するとこんな感じだ。

部屋に入る。中心人物がわいわい会話をしている。みんなが聞き入っている。誰も僕には気づかない。聞きながら僕は思う。「あ、今さっきの人の発言が無視されたな」「この人、相槌を大声でして相手の話を自分のものにしようとしているわ」。。。けどそんなことは関係なしに話は進んでいく。誰も僕には気づかない。大勢が静かにその中心人物の話を聞く。

楽しみにしてたんだけど、なんだか、これを聞いていてむしろ仲間外れにされている気分になってしまった。一人につき二枠の招待枠を勝ち取ったにも関らず。

立食パーティーでみんながわいわい盛り上がっているときに人気者たちがやんわりとお気に入り以外の人たちを輪に入れないアノ感じなのだ。画面から僕を優しく見ているのは「leave quietly」(静かに退室する)のボタン。

 

僕をクラブハウスに誘ってくれたのはそんな立食パーティーやクラブでもいつも横にいさせてくれた友達だ。都内で一人暮らしをしていた頃で、僕はクラブやパーティーなどに行っては新しい出会いや新しい仲間を求めていた。テクノ音楽が好きで仲良くなったこの友達は、DJの友人のダンスパーティーや、親友のバースデーなどに僕を誘ってくれた。

けど、そういうクラブやパーティーというのは社交的でありながら排外的でもあって、今振り返ると、自分にとって得るものは少なかった。エゴの強い人たちもたくさんいて、その友達が僕を誘ってきたことを面白く思わない人もいたのを僕は知っている。当時の僕には都内の週末の楽しみ方というのはこういうパーティーなんだろうと思って、自分なりに仲良くしたい人、仲良くしてくれる人を見つけて楽しんでいたけど、2年くらいそんな遊び方をした後、飽きて、いや、疲れてやめてしまい、この友達とも次第に疎遠になっていった。

僕と遊びたかったら一対一で遊ぶし、僕はその方がラクだ。多くても4人、、それ以上になると僕は対応しきれない。もちろん、大勢で飲んだり遊んだりしたあの時を楽しい思い出として振り返ることもできる。だけどそこには誰かしら中心人物タイプの人たちがいて、その人たちが縄張りを主張している。人が集まるところに、必ず縄張り争いはある。それを集まりの醍醐味とする人たちがいる。それがやたら目についてしまう僕は、そういう場所で、だんだん心を開けなくなっていった。最終的には、常に警戒していた、と思う。

そんな時代の友達からクラブハウスに誘われて、あの時の変な感じを思い出したのは奇遇だろうか。ひょっとしたらこの友達も、僕と同じような感覚を受けて、僕のことを思い出したのかもしれない。

(ところでクラブハウスもいいけどStand.fmも同じような感じ、しかもこっちは招待制じゃないからもう少しエゴイズムの低い人たちが期待できそう)

 

いろんなSNSがあるけど、結局web日記が一番面白いかもと思う。僕は生きているだけでいろんな人の考え方や感じ方を病的にキャッチしてしまうから、寝る前くらいはただただそれらを放出しなければならないのかもしれない。

ベッド捨ててから

あばば、日記を書いて放置しては過去の日記を消去する。思い出したくないことの方がおおいからね。それは日記の内容というよりその内容に付随して思い出してしまうリアルな感情なんだけど。

日記なんて僕の場合寝ようにも寝れない時に感情を吐き出すために書いてるものであって振り返るためじゃないから、それでいい。

楽しい時の日記を読んでもあの時は楽しかったなーなんて思って今が惨めに感じてしまうかもしれないし、楽しくない時の日記を読んでも楽しくなかった時の不快感を思い出してしまうかもしれないし。

 

さていつだか忘れたけどベッド捨てて押し入れ片付けてキャスター付き布団収納台買って布団生活始めてしばらくたった。

冬の畳は寒い!地面に冷気が落ちてくるし、通気がいいから足元が冷える。

布団がない分広々したのはいい。けどちょっと横になりたい時、床に座り込みたい時にどこでどうしたらいいかわからないのは困る。

畳という洗えないものの上に肌をつけたくないから、カーペットを使おうかとも思ってるけど、寝る時に埃を溜め込んだカーペットの上に布団を引くのは嫌だからどうしようか考えてる。

たぶんカーペットというよりもっとラグみたいな軽い敷物にすれば良いんだろう。寝る時はクルクル巻いて部屋の隅に片付けてから布団をひけばいい。

ただ軽すぎると滑るしズレるし、ちょうどいい重みとサイズと肌触りのラグを見つけたいな。

それから欲しいのはそのラグの上に置けるローテーブル。椅子は嵩張るので、あぐら椅子、または座布団。。色々捨てたら今度は色々欲しくなっちゃった。

 

カーペット 10000円

ローテーブル 8000円

座椅子 3000円

昼寝に便利な長座布団 2500円

 

キリがない。

とここで思ったんだけど

 

長座布団なんて縫えば良いし、ローテーブルだって無垢板とリンゴ箱にワックス塗ってボンドで装着すりゃいいんじゃないか?

カーペットをハギレで縫うのは無理がありそうだけど、買わずになんとかなる気もする。

こんなの全部贅沢品よね。