明治さんとあさ子さんの発言まとめ

楽しい毎日を日記で綴ります!

youtubeに動画を投稿しています

突然ですが、youtubeに動画を投稿するようになりました。内容はお散歩動画、実にコスパが悪いテーマです。持ち物を紹介する動画であれば、持っているものを紹介するだけだから、部屋の中で撮影から投稿まで全て完了するけど、散歩動画は散歩をしなければならないから、その分、労力がかかります。ただその労力の部分のお陰で、天気の良い日に外出する動機ができて、ここ数週間は比較的忙しく、あちこちを撮影して周っています。

投稿した動画の視聴回数が少しずつ上がっていくのを見るのに、小さな満足も感じます。平均視聴回数はせいぜい15回くらい。けど、有意義に週末を過ごせた事を考えると悪くありません。

前は、暇になるとホムセンに行って余計なものを買ったりしていたので、節約にもなっているのかな。撮影用の機材にとてつもないお金こそかけてしまったけど、これは後悔するような出費ではないと思う。

 

話は変わって、土曜日に新宿でビールを飲んだ。「飲みに行ってきた」というと語弊があるレベル。ほんの1時間くらい、屋外で飲めるバーで、久しぶりにちょこっと飲んで帰ってきた。

驚いたのは、人の多さ。現在は郊外、住宅街の中で静かに暮らしている自分からしたら、屋外で飲めるバーだけどそれでも超過密。そのバーでよく飲んでいるという人と話している最中に、ビールのグラスをできるだけその人から離している自分がいました。

けど、そのバーで恒常的に飲んでいる人たちからしたら、この状態が感染に気をつけているものであるようだった。屋外で飲めるバーを選んでいるし、夜遅くまで飲んでもいないし、、、とそれを感染対策として十分であるという認識が、僕とは違うんだなと感じました。

そしてそういう感覚の人が、同レベルの危機感で普段の生活もしているわけで、そりゃ、東京での感染スピードに緩まる気配がないわけだと妙に納得してしまった。そしてそれと同時に、ちょっと人混みの中にいる自分とビールも手伝ってパニックを起こしそうにもなった。

良かったこととしては、普段話さない人と話せたこと。職場の人と家族とくらいしか会話がなかったので、気分転換には確実になった。

普段、家族としか会話をしない人、はたまた誰とも会話しない人、感染対策どころか、健康状態や年齢を理由にそもそも外出できない人というのはいるわけだけど、僕はそういう人たちと比べたらずっと恵まれているんだな、と思いました。

色々複雑に考えながら、自分の考え、スタンスを見つめ直しながらの久しぶりのバー体験になった。僕はまだ外出をして人と会うことに関して、納得してはないのかもしれない。それとも慣れの問題で、もう何回か外出すれば、もうちょっと楽しく外出できるのかもしれない。ただはっきりと言えるのは、感染者数が減ったところで、ウィルスはそんな事情に関係なく感染することができるということだ。

結局のところ、僕の気持ちがどうであれ、僕の感染への認識ではこういったバー体験が楽しめるのはまだ先のことになりそう。

今日もブブセラ

頭の中ではブブセラ奏者が今日もわらわらと集まって気づくととんでも無いことになってる。

それでもその事に気づければいい方で、大抵は気づかないというかその映像を心に見ることも忘れて「落ち着かないな」「不安だな」なんて思ってしまう。

あの感情もこの感情も全部ブブセラ!と気づけた時に僕の平穏は少しずつ戻ってくる。どこかにブブセラと書いておこうかと思うんだけど、実はここで問題はある。

というのも、ブブセラ奏者たちがいてくれた方がいい時間というのが絶対にあると感じる事だ。

彼らがブーブーやって注意喚起をしてくれるからこそ気づける事がある。不安は使いようなのだ。

 

不安だからこそ準備できることがある。

不安だからこそ対峙する勇気が出てくる。

僕はそうやって生きていたことをふと思い出した。

不安は僕にとって起爆剤だった。不安要素が見えるという事は、幸福な事なのかもしれない。

 

目の前の問題がどうでもよくないから不安になる。それを無視して安心するか、それを解決して安心するかの使い分けが重要なんじゃないか。

 

ブブセラ奏者達を止めるのか、彼らの音を発信機のように利用して僕が僕を導いていくのか、その繰り返しで一日がカタカタと動いていくんじゃないだろうか。

 

僕がどうしようもなく不安な時に、実はどうしようもないのではなく、心の奥深くでその根源に気付いているのではないだろうか。

ひょっとしたらそれは大した事じゃないのかもしれない。掃除をするはずだったのにしてないとか、すべきことがあるのに億劫だから不安を増幅させて隠しているとか。わからないけど、本当はできることってあるんじゃないだろうか。

 

この日記を書くのもある意味では不安がさせていることでもある。

発言をすることで僕はバランスを取り戻していくような気がしている。

ブブセラ奏者を静かにする

なぜ生きているのか、なんのために生きているのか、やっぱりわからなくなってくる最近。考えないように考えないようにしているけど、考えないようにして生きる意味ってなんなんだろうとやはり悩んでしまう。

楽しいことを見つけて楽しめば良いんだけど、楽しい意味って何だろう。生きる意味なんてものはそもそも用意されていない。あって然るべきであるように思っちゃうけどそもそもそんなものはないのだ。

その悩みが吹き飛ぶような何かが見つかれば良いなと思ってる。

 

そんな感じだから、なかなかリラックスすることが難しい。

最近そこで試しているのが、頭の中にブブセラを吹く人たちを想像し、その人たちが速やかにブブセラを吹くのをやめるのを想像することだ。

結構これがうまくいっていて、寝るときやちょっと落ち着きたい時に、なかなか効果的だ。

ブブセラ奏者たちはみんな正装をしている。二列に並んで向き合い、ブブセラをその列の間に向けて吹いているのだが、その整然とした並びを無下にするようにブーブーと音を鳴らしている。

そこで想像の中の僕が、注目を促すように手を挙げると、その騒音はピタッと止み、僕が呼吸をするたびに、一人、また一人と立ち去っていくのだ。

落ち着きが取り戻せない時は延々と続くブブセラ奏者たちがまだ奥の方でブーブーやっているので、僕はまた注目を促し、静かにしてもらう。

そのブブセラ奏者の中に、きっと別の自分がいる。

 

考えや言葉が頭の中で止まらない時は、ブブセラブブセラと自分に唱えて、数人だけでも立ち去ってもらうようにしている。

ブブセラ奏者がいなくなった閑散としたホールを、頭の中に保つ。散歩をしている時、お風呂に入っている時、その状態をできるだけ保つことで静かに過ごすようにしている。

 

リラックスする、というのは難しくても、ブブセラ奏者を静かにさせる、というのは比較的簡単にできる。

こうやってなんとかやり過ごすのだ。

疑問や不安のブブセラ奏者を控室に戻して、僕の時間を作る。

パンジーが咲きました。

冬に少しずつ買い足した冬の花が今、満開。去年買ったパンジーは寒そうに花を2、3個ひらひらさせてたのが、ここ最近暖かかくなったからその一つの株から次々花がさいて植木鉢の上でガマガエル合戦状態です。

パンジーって実は公園などに植えてあるのが痛々しくて苦手だった。

地面に近いところに植っているから土がかかっていたり、大量に規則的に並べられているのがなんとも不自然で、見ていて窮屈で、売ってても買いたくないなと思っていた。

けどこう植木鉢に植えたのがたくさん咲くと、軽やかな色とか柔らかい花びらが清々しくて良い。

ビオラも一緒に植えたけど、パンジーの勢いを追うように最近になって咲き出した。

この時期から8月頃までは毎月毎月色んな花が順番に咲くので本当に楽しい。沈丁花が咲いて梅が咲いて、桜が咲いてシャガが咲いて花菖蒲が咲いて、、と毎月発見がある。

夏が終わってからこの時期まで花っぽさがなくなってしまうのが本当に残念なんだけど、この時期に咲く良い花はないものか。

大抵、夏に咲いてしまうか、その後咲くような花でも夏の暑さに負けて枯れてしまったりするから、先を見越して調べてみたいなと思っている。

友達を切り捨てたの巻

お題「#この1年の変化 」、、、友人関係を見直した。

 

誰にでも面倒くさい友達っているんだろうか、僕だけだろうか。

僕は面倒くさい友達を作ってしまう傾向があって、心の中で面倒くさいなあと思いながら付き合い続けてしまうことがよくある。

もう5年くらいの付き合いになるだろうか、この友達は自分の中でもなんていうか革命家タイプの人で、話しててとても面白いな、興味深いなと思わせるような話をよく聞かせてくれる友達だった。

社会がいかに歪んでいて、社会がいかにその歪んだシステムの中で市民を誘導し利益を確保しているのか、説いてくれる人だった。今回の新型肺炎騒動でもそう。去年のBLM運動でもそう。メディアによる煽りに人々が乗せられていく危険を説いていた。

 

けど何が面倒くさいって、話が長いのだ。話がひたすら長い。頼んでもいないことを延々と説教してくる。途中で僕が何を言おうと関係ない、いや何かを言えば僕の発した一文の中のキーワードを一つとってそこから更に自分の意見を広げていく。

去年、コロナで亡くなった人が周りにいるかと唐突に聞いてきたので、亡くなった友達の父の話をしたら、それは直接の知り合いではない、自分の周りでは亡くなっているのは友達の友達だとか同僚の家族だとかで、大抵は基礎疾患があったり高齢者であったりするので、健康な人で本当に身近な人が亡くなった例はとても少ない、だから今、社会はパニック状態にあり、ヒステリックになっているだけだと。僕はその時、父を亡くした友達のことで憂いていたので、流石に今はその人の話は聞きたくないといった。

ある時、試したら、僕が相槌も打たずに黙って聞いているのを10分近く気づかないこともあった。すでに聞いた話をされることもあったし、それを指摘した所で意味がない。僕のいうことなんて聞いていないのだから。そんな時は、話すだけ話して満足すると、「じゃあ僕はもう寝るから」と話を終わらせていなくなってしまう。僕はその話の中で発することができなかった僕の意見や考えのやり場に困りながら、疲れ果てて寝るのだ。

この人の自分の意見への執着はある種の病気なのかもしれないから、一概にこの人を叱ることはできないと思うし、これに関して僕の出る幕ではないと思い、それでも絶縁するようなことはせず、ある程度我慢をして、この人の意見を聞ける時は聞いていた。でも正直、面倒臭かった。

 

けど、この新型肺炎騒動が続いて、その煮え切らない交友関係を終わらせることができた。彼のような意見のある人、考えを発する人を、僕はエネルギーを費やしてでも僕の側に置いておく必要があると考えていたが、その理由がわかったからだ。それは僕の考えを形成するヒントを与えてくれる期待があったからである。

最近になってある程度ワクチンや病気の防ぎ方とか、より明確に見えてきたものの、去年は何が正しいのかわからない、言ってみれば異常事態だった。考えや思いを共有し、時に疑問を投げかけあって、歩く道を確かめる必要があった。こういう時のために、僕は彼を友人として、受け入れていたのではないのだろうか。

けど、彼のようなコミュニケーションが絶望的に成り立たない人は、むしろ逆で、それをさせてくれない。付き合いが5年以上になるとか、何か決定的な事件があったわけでもないとか、この人には僕の他に話を聞いてくれるであろう人がいない事が容易に想像できるとか、そう言うことはもうどうでもいい。これは単純に危険だ、そう思った。

 

それでもしばらく付き合いは続いたが、その新しくできた僕の空間の中で、彼と、彼の話を聞く僕の間にあったものは、僕の期待だったことがわかった。話を聞いてもらえる期待ではない。自分の足元を照らす灯への期待だ。けどそんな灯は、人の意見を聞いているだけでは生まれない。自分の足元を照らすのは自分であり、この人の長い話は、この人の足元だけを照らしていく。一言一言彼が発するたびに、彼は自分の居場所を照らし、僕が話を聞くことで成り立つ承認が、その照度をあげていく。

(皮肉なことに、そんな気づきをまず伝えたいなと思ったのがこの人だった。会話をしているという虚構が長く続いたせいだろうか。)

 

僕はそして、この人からの連絡に返事をするのをやめた。前にも何度か疲れて返事をしなかったこともあったが、久しぶりに連絡が来るたびに、最近どうしているのか聞いてみたくなって返事をしてしまう自分がいた。けど、もはや面倒臭いだけではなく危険になってしまったこの人に、僕は何を説明する気力もなくなってしまった。

 

数ヶ月たった今、なんだか長い文章が送られてきた。面倒くさいのでハッキリ読んでいないが、自分は何も悪いことはしていないし、連絡を取り合いたくないならせめて理由だけでも聞かせて欲しいと言うようなことが書いてあるように見えた。

彼の話が長いこと、疲れていると言っても話し続けて僕が怒ったことも過去には何度かあった。それでいて見当もつかないなら、やはりこの人とのコミュニケーションは成り立っておらず、危険である。

この一年で、心の健康について深く考えさせられた。自分の心を守ることが、感染症対策と同じくらいに重要なのだ。

 

放っておけば、その内似たような人を捕まえて、僕に話したんだかその人に話したんだか話してないんだか本人が思い出せないような話を、きっと続けるのが関の山だろう。

楽しい思い出もあるし、彼の意見自体、なかなか面白いなと思うことも多々あっただけに残念だけど、この人の熱で干からびた僕の受動帯はもう触ると砂のように崩れていくだけなのである。

 

っていうか、何が悪いかわからないけどとりあえず謝るってのは、なんだ。お構いなしもいい所である。僕は決して友達が多いタイプの人間ではない。だからこそ、この人を切り捨てることに勇気が必要だった。でも今思えば、彼はその弱さを嗅ぎつけて、僕に声をかけ続けていたのかもしれない。

リラックス難しい

三日坊主なのはいつものことなのでせめて三日は続けようということでこの日記を書かせていただいてます。よって特に書きたいこともなし、淡々とすっきりしない胸の内をそのまま書かせてもらおうと思います。

 

後頭部を締め付けられるような頭痛に苛まれている最近。今日は特に酷くて本当に迷惑だ。パソコンやネット会議中の照明が相当悪さをしていそう。またはiphoneの画面ややめられない喫煙が悪いのかもしれない。

 

僕は昔からリラックスをするのが苦手だ。例えば採血をするときなんかは「ラクにしてくださいねー」と看護師さんに言われるんだけどその仕方がわからず採血が中々進まない。騒音がするとおしっこ出ないし、ヨガのリラックスできる(らしい)姿勢で筋肉痛になったこともある。力を抜く力が大きすぎる。大きな壁の上に脈々と広がった木の根が、空間が広がることを許さないのだ。

楽しい会食なんてもってのほかだ。誰がどれだけ食べたのか、食べている同じ口でどう話せというのか、そんな事に考えを巡らせているうちに疲れてきて、いつ終わるのか、誰が終わらせるのか、誰が引き伸ばすのか、頭の中で大論争が繰り広げられている。

 

頭の中でレンブラントの絵に出てきそうな構図だ。ヒラヒラした服を着た男たちが、真っ暗な中で強烈なライトを浴び、解散時間を予測しては指をさしあってお互いの誤算を指摘しあっている。彼らの強烈なエネルギーが僕の頭を内側から押し出し、崩れそうな部屋の壁を木の根が掴んで離さない。

リラックスなんてできるものか。

 

どんな場面でも議題が変わるだけで、この人たちは誰も帰ろうとはしない。横になって"ラクな姿勢"をしようとした所でやはりそれは同じで、例えばそんな時はこの姿勢は果たしてラクなのか、横向きがいいか、枕はどうだ、いや呼吸法だと罵り合っている。

 

僕はその絵画を見ている人なのか、それともその絵画の中の誰かなのかはわからない。

なんでもいいけどこの全員がある程度のレベルまで納得した時が、きっと僕がリラックスできる時である。

 

この人たち、それぞれ行きたいところがあるんだろうか。その場所に連れて行ったら一人ずつ離脱していって最後に僕一人が残るんだろうか。

 

 別に前からこうだったわけじゃない。いつだか覚えてないけど、一人で過ごす時間が楽しかった時が絶対に僕にもあったはずだ。その時の感覚を思い出したくて、今は文章を書いている。

 

今にも皿がフリスビーのように投げ飛ばされそうな食卓で、その人は言葉を探している。その場にいる誰のためでもなく、自身に向けて。その人の声を聞いてあげたい。その人には、一番手前で机に片手をつきもう片方の手で人差し指を伸ばしている男すら黙らせるだけの必殺の一文を作り出せる力がある。

 

ジャスティン・ティンバーレイクと森喜朗事件

女性蔑視発言に燃える自民の爺たちの発言に世の爺たちは何を思うのだろうか。

自分たちの常識がいかに非常識なのか、少しでも気がついてくれればいいけど。

 

常識は変わり続けていて、時に新たな常識は嘲笑と共に迎えられることがある。

わかりやすい例は10年ほど前に「草食系男子」と揶揄された男たちである。料理をしたり、趣味に没頭したりして、女にがっつかない、性欲低めに見える男たちを揶揄した表現だ。(興味深いことに、この言葉を言い出したのは女性だった。)今ではそんな男がすっかり常識になりつつある。

 

新しい流れを指をさして笑っている間に、向かい風に晒される。

女性蔑視発言に燃える爺たちを見て、そんな事を考えさせられた。

 

今日とても興味深い記事を読んだ。ゴシップ記事かと思ったら違かった。僕自身も反省させられた記事。ジャスティン・ティンバーレイクが謝罪文を公開したことだ。

彼は自分が白人男性が成功するようにお膳立てされたシステムの中で生き、ブリトニーを悪者にした事を謝っていた。

男が派手なら魅力的で、女が派手ならアバズレ、そんな社会がほんの10年ちょっと前までそういえばあったことを僕は今まですっかり忘れていたし、それが普通であった世界に僕が育っていたこともすっかり忘れていた。

BLMもMeTooも大して真面目にフォローしてこなかったけど、そういった活動がどれだけ大きな風となったのか、恥ずかしながらこの記事を読んではっと気付かされた。今改めてあの時のジャスティン・ティンバーレイクを観ると、あの頃からすでに小さな新しい流れがふきだしていて、僕はそれに指をさして笑う大勢の一人だった。

 

(似たような感覚で思い出されるのは、Lady Gagaが売れてなかった頃のラジオインタビューだ。彼女の奇抜な格好を鼻で笑っていたあるラジオDJは、今、あの時の事を恥じているといっていた。彼女がずっと自分を愛そうというメッセージ、好きな格好をすればいいのよ、というメッセージ。このDJは今自分がゲイであることを完全にカミングアウトしているが、このインタビューの時はまだしていなかった。)

 

時代は動いている。女性蔑視のニュースが出るたびに情けなくも苛立たしくも感じるが、これがニュースになることは、社会の大きな進歩の証だ。10年前だったら、僕も、社会も、こういうニュースになんの価値も見出さなかったかもしれない。

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