今日もブブセラ
頭の中ではブブセラ奏者が今日もわらわらと集まって気づくととんでも無いことになってる。
それでもその事に気づければいい方で、大抵は気づかないというかその映像を心に見ることも忘れて「落ち着かないな」「不安だな」なんて思ってしまう。
あの感情もこの感情も全部ブブセラ!と気づけた時に僕の平穏は少しずつ戻ってくる。どこかにブブセラと書いておこうかと思うんだけど、実はここで問題はある。
というのも、ブブセラ奏者たちがいてくれた方がいい時間というのが絶対にあると感じる事だ。
彼らがブーブーやって注意喚起をしてくれるからこそ気づける事がある。不安は使いようなのだ。
不安だからこそ準備できることがある。
不安だからこそ対峙する勇気が出てくる。
僕はそうやって生きていたことをふと思い出した。
不安は僕にとって起爆剤だった。不安要素が見えるという事は、幸福な事なのかもしれない。
目の前の問題がどうでもよくないから不安になる。それを無視して安心するか、それを解決して安心するかの使い分けが重要なんじゃないか。
ブブセラ奏者達を止めるのか、彼らの音を発信機のように利用して僕が僕を導いていくのか、その繰り返しで一日がカタカタと動いていくんじゃないだろうか。
僕がどうしようもなく不安な時に、実はどうしようもないのではなく、心の奥深くでその根源に気付いているのではないだろうか。
ひょっとしたらそれは大した事じゃないのかもしれない。掃除をするはずだったのにしてないとか、すべきことがあるのに億劫だから不安を増幅させて隠しているとか。わからないけど、本当はできることってあるんじゃないだろうか。
この日記を書くのもある意味では不安がさせていることでもある。
発言をすることで僕はバランスを取り戻していくような気がしている。