本棚
典型的な実家にありがちなものなのだが、僕の実家には背の高い本棚がある。
この圧迫感と来たら、溜まったものではない。
僕が想像するに、昔はこういう本棚は権力や富の象徴だったのだろう。
本や書類が情報源であった時代には、大量の本がある事は、最新のラップトップやAV機器を備えるような贅沢であったのではないだろうか。
更に言ってみれば、もしかしたら、その本棚に家主の本が大量に詰め込まれる事で、暗にその家の中で誰に力があるか、可視化していたのかもしれない。
天袋から座布団が出てきたときに調べて知った事だが、座布団には富の象徴としての役割があったらしい。
来客があったときに座布団を差し出すことは、どうぞ私たちの富にお座りください、おくつろぎください、という気持ちを伝える役割があったと考えられているそうだ。
それなら本棚が家の威厳だとか歴史だとかを象徴していたかもしれないと考えるのは、あながち間違っていないような気がする。
そして、時代が変わった今、座布団や本棚はただの圧迫感になってしまった。では何が、今の時代の裕福さの象徴なのだろう。
僕はそれを空間だと考える。空間があれば、生活の余裕を象徴し、不安がないことを見せることができる。物がないことが、昔とは逆で住処に安心を与えるのだ。
誇示するため、とまでは行かなくても、空間がある事は、多かれ少なかれ裕福な印象を人に与えるだろう。
これに通じる話で、映画を撮影するときに、貧しい家庭を登場させるときは、家中に物が溢れかえっているセットにするそうだ。物があればあるほど、生活が困窮している様子を表現することができるらしい。
もちろん物の多さと貧しさは決して印象だけの話ではない。掃除をしてみて、今まで物が溢れかえっていたせいで、どこに何があるか処理できていなかった事に気づいた。
つまり、擬似体験的に、僕は物を持っていなかった。ごちゃごちゃとした家の中で、僕は自分の手元にあるはずのものが見えなかったのだ。
あれもない、これもないと思いながら買い足しては忘れていく。気づけば僕も汚部屋の住人となっていたわけだ。
時代と共に、物の意味は変わっていく。そう考えると、世代ごとで家の汚さ、綺麗さの基準は大きく違うのだろう。
だから自分の部屋以外の場所の掃除に関しては、慎重に進めていくつもりだ。
あまり急に変えてしまうと、ある人にとっては富の象徴であったものを、その人の目の前で無残に壊してしまうかもしれない。