明治さんとあさ子さんの発言まとめ

楽しい毎日を日記で綴ります!

弱った猫は放っておけ

怒りを紐解くとそこには悲しみが溢れている。友人知人に伝えるだけではどうしても気持ちの整理がつかない事があったので、ここにまとめてから寝ようと思う。

猫が死んだ。祖母が餌付けて、10年以上前から庭に住み着いた元野良猫だ。最初は祖母にしか心を許さなかったが、祖母の認知症が少しずつ悪化していった頃に、僕や母も餌をやるようになって、だんだんと祖母以外の家族が近づいても逃げないようになった猫である。父は野良猫が庭に次々増えるかもしれないと、この猫が庭に住み着いた当初は、水をかけて追い払っていたが、そんな父にすら頭を撫でさせる始末だった。名前はない。僕はミス・トレバーだのニャンコロだの気が向くままに適当な名前をつけて可愛がっていた。2年前に祖母が亡くなってからは、僕にとってこの猫は祖母の代わりに気をかける存在になっていて、猫にも随分気に入られていた。僕が庭の草むしり始めればいつまでも付いてきたし、冬の寒い日には僕が部屋の中に入れてあげるまで、窓をガリガリとひっ掻いて甘えてきた。野良猫だった頃や、祖母以外の人間に怯えて生きていた頃の空白を埋めるように、人懐っこく甘える猫だった。

そんな猫がそれでも避けていたのは甥っ子たちである。何にでも興味津々の男の子3人が兄夫婦に連れられて遊びにくると、猫は急に姿勢を低くして庭の隅に隠れる。ある時は猫だ猫だと触りたがる子供たちに随分追いかけられていたが、母の用意したお菓子やおもちゃに子供たちの興味が移ると、すぐに窓から僕の部屋に入ってきて、僕は猫は一緒にこの子達が帰るまで過ごした。僕も実は少しばかり元気すぎる子供達と一緒にいるのが億劫だったので、ちょうどよかった。僕と猫で寝たふりをしながら兄一家が帰るのを待つのはちょっとした習慣になっていた。

この猫の死は実にあっけなかった。もう20年近く生きたはずのこの猫は、痩せ細っていて、牙も一本抜けていた。もう長くはないことはわかっていたから、ある程度は心の準備ができていたつもりだったが、それでも急に感じるほどだった。ある日、姿が見つからなくて探してみると、家の裏にある棚の中に隠れていて、ヨダレや鼻水で顔が汚れていた。いつも覗いていた水瓶に落ちて風邪を引いたのか、最近あげるようになったパウチの餌があっていなかったのか、何かに感染したのか、原因はわからないけど、ぐったりと弱っていて、見つけた時は、その時が来たことを受け入れるほかなかった。僕がそんな状態になった猫を見つけて、3日後には死んでしまった。

死の前日、最初に見つけた時とは目に見えて弱った猫にどうしてあげるのがいいか僕は必死に考えた。この日は土曜日で、裏庭の掃除をしながら花の苗でも植えようと思って準備をしていた。いつものように猫が尻尾をピンと立てて付いて回るのを楽しみにしていたけど、こうなってしまっては仕方がない。猫は体調が悪い時はこうやってどこかに隠れ、誰にも邪魔されずに一人でいたがるものなのだ。その証拠に、猫は顔をこちらに向けず、裏庭の棚の影で項垂れていた。死の概念はないはずだから、猫としては野生の本能に従いながら、ただ休もうとしているんだと僕は感じた。動物病院に行くことも考えたけど、もうこの猫は十分に生きたし、薬や注射で延命を試みる事が、野良猫、庭猫として生きてきたこの猫にとってどれだけ恐ろしいものかを考えると、このまま眠るように逝かせてやることが一番の贈り物であるように思えた。

猫を気にして何度も覗きにいってしまうのがストレスになると思って、僕はその日はしばらく外出をすることにした。この日また兄一家が遊びにくる予定だったのが心配で、猫の顔を拭くのに使ったタオルや、棚の周りのものを片付けて出来るだけあの子供たちに見つからないようにした。どうせお肉やおもちゃで豪勢にもてなされるあの子供たちだから、最初の10分バレなければいいのだ。猫が病気だ、だの、そっとしておいて、だの言うとむしろ逆効果で、かわいそうだからお見舞いしてげましょうなどと大人たちに提案されるがままにあの子たちが猫をペチペチと触ったり、最悪の場合は驚かされた猫が他のところに逃げて死んでしまうことだってあり得るのは、自分の家族のことだから簡単に想像ができた。

出かける旨を母に伝え、出かける前にもう一度だけ猫の様子を伺いに行くと、猫はスースーと浅くゆっくり息をしていた。最後にもう少しだけ、としゃがんで見守る僕に、いつの間にか現れた父が「猫、そこで休んでるんだって?」と聞いてきた。子供達の次に関わってほしくないのがこのでしゃばりな父である。きっと母がベラベラと喋ったんだろう。子供たちには言わないように、と伝えようかなんて考えが一瞬よぎったが、そうしなかった。そんなこと言うと逆効果なのだ。父の性格から考えるに、兄一家にそれをそのまま伝えて、子供たちは猫が大変だ、猫がかわいそう、口々に言い出す、そして、じゃぁ静かにお見舞いしましょうね、と父や母が言い出すに決まっている。いやでも、これだけ目立たないような場所で、周りからはよく見えないから、子供が猫を触り出すことなんてのは流石にないはずだ、僕は自分に言い聞かせ、余計なことは言わずに、立ち去った。(この父の場合、大事なのは父の印象に猫が弱っていることを出来るだけ残さないことであろうとこの時、僕は考えたのだ。余計なことを言えば言うほど彼の中でこの件が「盛り上がり」、些細な事が大事になって行く。そして小さな子供は煽られるように猫の周りに群がってしまう。)その勘を信じて僕は出かけることにした。全ては何でもないような一日になるように、いつもの日常の中で猫が死ねるように。僕の願掛けでもあった。

横浜駅まで出て、レンタル自転車を漕ぎながら時間が過ぎるのを待った。お昼ご飯を食べて子供達が帰るのはいつも5時頃だろうか。関内にあるインディーズ映画ばかりやってる映画館で、静かそうな映画を見つけて時間を潰すことにした。その映画その前の夜は、猫のことで頭がいっぱいでよく眠れなかったのもあって、半分くらいうたた寝してしまった。アイスを食べたり、歩くような速度でゆっくりと自転車を漕いだり、こうして帰ってきたら「お陰でゆっくり休めたわ!」みたいな顔して僕の部屋の窓をガリガリひっ掻いてたりして、なんて考えては、そんな馬鹿な考えを自ら正したりした。大した目的もなく街をほっつき歩くのも悪くなかった。

家に帰ると案の定、家の中は男の子3人の元気で賑やかになっていた。兄夫婦に挨拶をして、軽く会話をする。頭の中では、猫のことでいっぱいだった。早く切り上げて、部屋に入って、今度は窓から部屋を出て、家の裏に回ろう。完璧だ。一番したの甥っ子が恥ずかしそうに挨拶をする。いつの間に随分と喋れるようになったものだ。長男と次男はお風呂で汗を流しているようでキャーキャーと声が聞こえてくる。母は台所で早めの夕食の準備をして、父もバタバタと庭先で焼きそばを焼こうと大忙しである。僕と猫はいつもだったらこの喧騒が過ぎるのを部屋でずっと待つのだ。その猫が死のうとしている。僕が部屋入ろうとすると、さっき挨拶をした一番下の甥っ子が「ねぇ」と話しかけてきた。僕は普段あまり甥っ子たちと喋らないので、珍しいなと思った。何?どうしたの?というと「こっち来てー!見てこれ!」と言い出した。居間の窓際で僕を手招きするその子が見せようとしたのは新しいおもちゃでも石ころでもなかった。猫の入った段ボール箱だったのだ。猫が入れられていたのである。

死んでしまったのか!と思って僕はゆっくりその箱に近づいた。中に見たのは多分猫の死体より酷い物だった。猫はまだ生きており、怯えて、小動物のように呼吸を荒くしながら、狭い箱で震えていたのだ。僕はしゃがみ込んで頭を撫でた。とにかく驚いている猫に「僕だよ、僕だよ」と言って落ち着かせようとする。反応する猫を覗き込んで誰かが「あーやっぱ、誰が触ってるか、わかるんだねぇ」と随分悠長に話す。猫が蘇ったと思ったのか、小さい甥っ子がピアノに飛びついてバンバンと引き出した。信じられない。この家族には馬鹿しかいないのか!僕は「静かなところに連れて行くから」と言い箱を持って家の裏庭に行った。ごめんね、ごめんね、僕だよ、大丈夫、大丈夫、と苦しそうに首を伸ばした猫を落ち着かせた。箱から出して元いた場所に猫を戻す。もう脚はすっかり動かなくなっていたが、目や耳は大丈夫なようだった。つまりついさっきまではあの騒音の中を、段ボールしか見えない空間の中でずっと耐えていたわけだ。この猫が何より避けていた空間の真ん中で。驚いて僕もへたり込んでしまった。こんな僕に家族で乾杯だけでもしましょうなんて言いにきた母を追い払った。何に乾杯するんだ。馬鹿さにか。

あの馬鹿でしゃばりな父の仕業であることは間違いなかった。一体何のつもりだろう。猫はAmazonで買った一度しか使わないポップコーン製造機でもなければ、かわいそうな猫を見守る可愛い孫を撮影するための導入剤でもない。教材でもなければ、見せ物でもない。けどこれ以上余計なことを考えたくなかった。僕はこの家族を多少は理解できている気でいたし、この家族が多少は僕を理解できている気でいたけれど、全くもってできていなかったのだ。弱った猫が一人になりたがるのが習性ならば、子供や孫のためにどこまでも馬鹿になるのが親や祖父母の習性なのだろう。沸々と湧き上がる怒りを僕は抑えて、自分の部屋に戻った。僕と猫、離れ離れで時が過ぎるのを待った。けど確かに、二人一緒の時間だった。

出張ウィーク

今週は出張で作業&お客さんへの挨拶回りーということで上司と一緒に日本某所に来ています。緊張、緊張の毎日。ホントに疲れたしできればもう明日は全部無しにして帰りたい。。。

けどそんなことが許されるはずもなく明日も二件ほど挨拶して帰路に着きます。

普段メールでやり取りする人と直接会うとそれなりに良いこともあると思うので、できるだけ前向きに捉えて行こうと思っています。

 

それにしても疲れた。そしてそう言える場がここにあって本当によかった。

あー疲れたと言える安心感。僕はそれを人に許せてきただろうか。疲れると、そういう感傷に浸ってしまう。気持ちの置き場所がどうもわからないまま、今週は生きている。

 

僕の精神的な旅はこうやって仕事で忙しくなると一時停止する。すると代わって普段は見つめなかった思い出や感覚がより鮮明に蘇ってくる。自分の弱さを知り、危うさを感じ、こんな時に「普段の自分」に疑問を抱く。

全てが嫌になった時は、自分が変わる準備ができたことへのサインだと思っている。新しい自分や価値観に気持ちが移動するから、今まで普通であったことに違和感を感じるのだ。たぶん。だからこの不安定な状態も決して悪いことではないはずなのだ。

 

何をどう考えているか、僕の頭でなんとなくわかっているけど、ここには書けないでいる。自分の目の前に文字としてそれを広げることができない。でもいつまでもこのままで居たら、いつか後悔するような気がしていて、過去に囚われたまま、さらに僕に暗くまとわりつく過去を今が生産してしまう気がしている。

 

楽しむことが難しくなってきた。僕にとっての楽しいはなんだったっけ。今週末は天気が良さそう。ちょっとでも楽しいと感じることがあったら、しっかりとその気持ちを捕まえたい。

 

何故か泣く!!

よくわからないんだけど涙が出て出てしょうがなかった。ラブコメの「世界に一つのプレイブック」を観てたんだけど躁鬱病の主人公が躁状態で大騒ぎしてるシーン、ちょっとコミカルで面白いはずなのにボロボロ涙が出てきた。

心のどこかで僕も同じくらいぶっ飛びたい気持ちがあって共感したのかもしれない。

共感して出る涙は安堵の涙。目の前に映し出された事象と自分の心が繋がることで、孤独感が薄らぎ、自分が持っていた荷物の重たさに気づくわけだ。

ブコメは軽く観れるしお決まりの展開だけど、だからこそ重たいテーマもすんなりと受け入れられる。

それにしても!それにしても泣かなくたって良いのに。最近疲れていたのかもしれないし、冬が深まって少し心細くなっていたのかもしれない。

そういえば祖母が亡くなってもうすぐ一年だ。それも少しは関わっているのかも。

僕はぐっと感情を抑えて祖母の葬式やその後の生活も乗り切ってきたつもり。泣いても喚いても亡くなった人の心はもう動かないから。

でも泣き喚けたらどんなによかっただろうとも最近はよく思う。時間が経った今こそ、自分のためにそうすることを許せるようになってきたのかもしれない。そんな中で観たこの映画の登場人物が大騒ぎするシーンから、まだそうなれずにいる自分を見たのかもしれない。

どんな映画も物語の中に感情の波があって、そこから僕が感情表現を思い出していく。感情なんて感覚として持てば持つほど生活は難しくなると僕は思っている。この世は感情を押し殺さなきゃいけなことばかりだから。それでも映画を観るのは好きだ。僕が仕舞い込んでいる感情を、画面の中で誰かが代理で執行してくれている。映画を観ることでそれが自分に帰ってくるのが果たして良いことなのかは、まだわからずにいる。

こうやって涙が出てきたことは僕のそんな不安も他所に、僕の感情が刺激を受けているということだ。それが良いことなのかは、僕の感情の部分は全く気にしていない。

感情の僕と、そうでない僕が、どこかで出会った時に安堵の涙が出るのだろうか。

 

 

コオロギせんべい

昆虫食って少しずつ少しずつ注目を浴びているけど、まだ僕は試した事がない。

何故あんな虫とわかる生々しい形で売っているんだろう。例えば豚肉を僕たちは抵抗なく消費しているけど、もしこれが豚の丸焼きだったら躊躇する人は多いと思う。

昆虫食も一緒で、加工され虫だという印象を得ない形でならもっと広まるんじゃないかと思う。

いま無印良品でコオロギせんべいなるものが売っているらしいけど、そういう形の方が絶対に馴染みやすいし食べやすい。

まだ昆虫食自体が新しいものだから、これから変化と成長が気になっている分野。

 

昆虫色を減らすには、加工し虫っぽい見た目をなくすこと、それから名前を変えて虫を連想させづらくすることだと思っている。例えば藻だと摂取しづらくてもスピルリナのサプリなら摂取しやすいのと一緒で、コオロギせんべいも食べやすい命名にしたらどうか。イナゴが食べやすいのはその名前が稲の子って感じがするからだと思うし、同じようにコオロギも何か別の名前はないだろうか。コオロギだと便所コオロギって呼称もあることからどうも汚い感じがしてしまうのだ。

 

アマヅキせんべい(適当)とか。わからないけど、とにかく何か他の名前を。

年下の友達から学ぶ事

10歳くらい年下の知人の悩みがどうでも良いというか日記にでも書いてろってレベルなんだけどそういえば僕は以前、日記を書く事を色んな人から勧められてたので、僕もこんな感じでよっぽどウザかったんだろうなとTwitterに書いてるから多分何も学んでない。

この歳下の友達の悩みは彼氏からドタキャンを繰り返されて苦しい、というものだったんだけど、別れれば良いと思うよ、としか言えないのでそう言った。本人は腑に落ちない様子でそれでもその人が好きな事を語ってくる。どうもそういう返事は求めてなかったらしい。

ただそれでは今度は僕が納得できない。好きなら付き合い続けれな良いけど、付き合い続ける事を決めた時点でドタキャンされる事も受け入れるほかないのではないだろうか。

これじゃ、いじめ紀行なんて記事を載せておきながらオリンピックの作曲を務めようとした小山田圭吾と一緒だ。この人も、善行に中指を立てる事をマーケティングのネタにし注目を集めた時点で、平和の祭典から拒絶される事を受け入れるほかなくなったのだ。悪魔の契約とでもいうべきか。

不幸を選ぶのも悪役を演じるのも、自由であるが、その自由には責任が伴う。それを理解できないまま、ズブズブとその沼に足を踏み入れた人のドブ臭い話をなぜ僕が聞かなければならないのか。僕の時間に。僕はそんな風にならないように気をつけて生きている。そうやって自分の人生を管理している。なので、それができない人と一緒に泥舟を漕ぐ気はないのである。

10歳くらい年下の友達だけど、こんなしょうもない話が多い。けど、その分、比較して冷静な判断をしている自分に驚かされる。僕はこんな考え方ができるようになったのかと静かに感嘆することが多くて、それは面白いなと思う。終わり。

youtubeに動画を投稿しています

突然ですが、youtubeに動画を投稿するようになりました。内容はお散歩動画、実にコスパが悪いテーマです。持ち物を紹介する動画であれば、持っているものを紹介するだけだから、部屋の中で撮影から投稿まで全て完了するけど、散歩動画は散歩をしなければならないから、その分、労力がかかります。ただその労力の部分のお陰で、天気の良い日に外出する動機ができて、ここ数週間は比較的忙しく、あちこちを撮影して周っています。

投稿した動画の視聴回数が少しずつ上がっていくのを見るのに、小さな満足も感じます。平均視聴回数はせいぜい15回くらい。けど、有意義に週末を過ごせた事を考えると悪くありません。

前は、暇になるとホムセンに行って余計なものを買ったりしていたので、節約にもなっているのかな。撮影用の機材にとてつもないお金こそかけてしまったけど、これは後悔するような出費ではないと思う。

 

話は変わって、土曜日に新宿でビールを飲んだ。「飲みに行ってきた」というと語弊があるレベル。ほんの1時間くらい、屋外で飲めるバーで、久しぶりにちょこっと飲んで帰ってきた。

驚いたのは、人の多さ。現在は郊外、住宅街の中で静かに暮らしている自分からしたら、屋外で飲めるバーだけどそれでも超過密。そのバーでよく飲んでいるという人と話している最中に、ビールのグラスをできるだけその人から離している自分がいました。

けど、そのバーで恒常的に飲んでいる人たちからしたら、この状態が感染に気をつけているものであるようだった。屋外で飲めるバーを選んでいるし、夜遅くまで飲んでもいないし、、、とそれを感染対策として十分であるという認識が、僕とは違うんだなと感じました。

そしてそういう感覚の人が、同レベルの危機感で普段の生活もしているわけで、そりゃ、東京での感染スピードに緩まる気配がないわけだと妙に納得してしまった。そしてそれと同時に、ちょっと人混みの中にいる自分とビールも手伝ってパニックを起こしそうにもなった。

良かったこととしては、普段話さない人と話せたこと。職場の人と家族とくらいしか会話がなかったので、気分転換には確実になった。

普段、家族としか会話をしない人、はたまた誰とも会話しない人、感染対策どころか、健康状態や年齢を理由にそもそも外出できない人というのはいるわけだけど、僕はそういう人たちと比べたらずっと恵まれているんだな、と思いました。

色々複雑に考えながら、自分の考え、スタンスを見つめ直しながらの久しぶりのバー体験になった。僕はまだ外出をして人と会うことに関して、納得してはないのかもしれない。それとも慣れの問題で、もう何回か外出すれば、もうちょっと楽しく外出できるのかもしれない。ただはっきりと言えるのは、感染者数が減ったところで、ウィルスはそんな事情に関係なく感染することができるということだ。

結局のところ、僕の気持ちがどうであれ、僕の感染への認識ではこういったバー体験が楽しめるのはまだ先のことになりそう。

今日もブブセラ

頭の中ではブブセラ奏者が今日もわらわらと集まって気づくととんでも無いことになってる。

それでもその事に気づければいい方で、大抵は気づかないというかその映像を心に見ることも忘れて「落ち着かないな」「不安だな」なんて思ってしまう。

あの感情もこの感情も全部ブブセラ!と気づけた時に僕の平穏は少しずつ戻ってくる。どこかにブブセラと書いておこうかと思うんだけど、実はここで問題はある。

というのも、ブブセラ奏者たちがいてくれた方がいい時間というのが絶対にあると感じる事だ。

彼らがブーブーやって注意喚起をしてくれるからこそ気づける事がある。不安は使いようなのだ。

 

不安だからこそ準備できることがある。

不安だからこそ対峙する勇気が出てくる。

僕はそうやって生きていたことをふと思い出した。

不安は僕にとって起爆剤だった。不安要素が見えるという事は、幸福な事なのかもしれない。

 

目の前の問題がどうでもよくないから不安になる。それを無視して安心するか、それを解決して安心するかの使い分けが重要なんじゃないか。

 

ブブセラ奏者達を止めるのか、彼らの音を発信機のように利用して僕が僕を導いていくのか、その繰り返しで一日がカタカタと動いていくんじゃないだろうか。

 

僕がどうしようもなく不安な時に、実はどうしようもないのではなく、心の奥深くでその根源に気付いているのではないだろうか。

ひょっとしたらそれは大した事じゃないのかもしれない。掃除をするはずだったのにしてないとか、すべきことがあるのに億劫だから不安を増幅させて隠しているとか。わからないけど、本当はできることってあるんじゃないだろうか。

 

この日記を書くのもある意味では不安がさせていることでもある。

発言をすることで僕はバランスを取り戻していくような気がしている。